月の夜に降る雪

――詞華集 日々の営みの中で さまざまにうつろう 心模様です――
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荒れた手のように

わたしは働かない。
水を使った家事をほとんどしない。

同じくらいの年かなと思うその人は、
2人の子供と義理の両親と夫のため、
ずっと家事をし続けている。
子供が成人して仕事をしている今でさえ。

だからその人の手は荒れて、年を感じさせる。
それはその人の人生の勲章だけど、
肩や胸につける勲章ではなく、
受けた傷、失った体の一部が勲章だというのと、同じ意味。

――肩や胸につける勲章は、立派に生きてる2人のお子さんとか、
いずれ子供たちに遺される立派な一戸建てとか、だからね。


わたしの手は荒れない。
でも荒れるものもあって、それは心。

何十年も仕事をし続けていれば、
手の皮膚が厚くなるのと同じように、心も厚くなる。
手が堅くなるように、心も堅くなる。
手が荒れるように、心もすりきれる。

ほかに賭けるべきものがなくなれば、
得るものもなく荒れる一方。
育っていく子供や、成功していく自分、
そんな誇れる何か、積み上げてきた何かがなければ。

心は荒れていく。年を取った主婦の手が荒れるように。
ガサガサになっていく。繊細でなくなっていく。

年を取った主婦の手が荒れるように。



今朝の下り電車

通勤時間帯だけど、下りだから立っている人はほとんどいない。

朝の下りだけど、通勤時間帯だから席はほとんど空いていない。

でも完全に埋まっているわけではないのだ、
入り込む隙もないほどぎっしりでは。

狙っていた、まぶしい光の射さない側、
入れなかった。

みんなが狙っていたけど、誰も入れなかった。

蜘蛛のように膝を広げて、長い足を体より倍も横に出している若者。
彼の脇の空間にお尻を入れるのは、乗り込んだ客は皆、躊躇した。
彼は浅黒い肌をした、異国の若者か異質な若者のどちらかだったから。

足を投げ出すように広げて、目を閉じている男性。
むりやりお尻を入れてこの人を起こすのは、皆、やめておいた。
そこまで混んではいなかったから。そんな面倒なことをするほどでもなかったから。

最後にもう一人、足を広げて座っている若者。
彼には言えた。「すみません」と言ったり、お辞儀をしたりして、隣にお尻を押し込めた。
でも誰もやらなかった。

この人だけが少しくらいよけてくれても、他の二人が動かなければ、やっぱりかなり窮屈だから。

そうして朝の下り電車は走って行った。



今日も五月晴れ

開始から2ヶ月、すべてにおいて失望した。

いや、さすがにそれは誇張だ。

しかしいろいろなことについて、失望した。

分かっていたはずなのに、
覚悟していたはずなのに、

期待を捨てきれていなかったんだなあ。

そんな自分にもちょっと失望して、春が終わる。

今日も五月晴れ。


子供がいるってこと

「あの人は40代くらいだけど、新婚みたいね」
「そのようですね」
「ご主人とは同じような仕事をしているんですって。
きっとおうちに帰って、方法論とかを話し合ったりしてるのよ」
「ああ、そうかもしれませんね」

「でもあたしは心の中でいつも、新婚さんの話を聞くとき思ってるの。
今だけだよ、って。そのうち話も通じなくなって、話さなくなっていくよ、って」

――そうかな。
年をとっても仲の良いご夫婦もいるけれど。

あ、そうか。

この人にはお子さんがいるんだ。成人したお子さんがいるんだ。

子供のいない夫婦は、相手を頼りにするしかない。
だから仲がいい。
仲良くしていく我慢をするから。他に心の支えとなるものがないから。

あ、そうか。

この人にはお子さんがいるんだ。
そういうことか――


お腹を痛めた子

話していて分かった。

ああ、そうか。
この人が利己的なところがあって、
でも何も省みる必要もなく、いつでも笑顔で、
自己を卑下する日も、嫌悪する時もなく、
明るく、何の疑問もなく生きていけるのは、
家族がいるからだ。

子供がいるからだ。

決して自分を断ち切ることのない、
強いきずなで結ばれた存在が、
三人もこの世にいるからだ。

「お母さん」――それは特別だからだ。
生まれた子にとって。

愛されなくなることはない。
100パーセントの確信を持って、
子供たちの存在を信じていられる。

子供はいなくなることがない。
父母は自分より早くいなくなる。
夫はもしかしたら自分より早くいなくなる。

でも子供は、自分より先にいなくなることがない。
――普通ならば。

普通でないなんてわけがあるはずない。
少なくとも今はそう思える。

子供は確固たる存在だ。
確固たる存在意義だ。
自分の存在への全面的な肯定だ。

だからか。

まっとうに成長した、健康なお子さんが三人もいる。
そういうことか――


一抹の寂しさ

新しいところに移って三週間。
同じ組織、同じ仕事だけど、
これまでの気楽で自由にやれた場所とは違う。

分かっていたはず。
なのに、日が経つにつれ、増えていく。
ああ、こういうことかという実感。

小さな失望が重なっていく。

機械的に進んでいく物事の、
とても小さいネジなのだということが、
目の前にハッキリ見えてくる。

歯車でさえない、小さいネジ。

分かっていたことだけれど、
ああ、こういうことなのか。

春の休日、山を歩いて寺に行く。
引いたおみくじには、小吉の文字。

「すべて順調だが、その中に一抹の寂しさが混じる」

安定が必要で、今の場所に移るために頑張ったけど、
競争をくぐり抜けてたどり着いたけど、

たどり着けて順調だけど、
一抹の寂しさ。

ああ、そうだ、本当だ。


敗北

わたしは負けた。
戦い始めたつもりはないけど。

勝てないという意味で負けた。
それを上も容認したということで、確定した。

心の中だけのことじゃなく、
対外的にキッチリ負けた。

戦うべきじゃなかった。
理屈の通じない相手とは。

でも戦ったつもりはなかった。
受け流そうとしたのに。

そんなことはよくあること。
国同士でだってよくあること。

仕方ないんだ。
運が悪かった。

負けの黒星がひとつ、ついてしまっても、
仕方ないんだ、運が悪かった。


ぐだぐだ

久しぶりに昔好きだったドラマを見た。
クラシックドラマチャンネルができたからだ。

このヒロインはぐだぐだなのがいい。

ぐだぐだの内容が違っても、
ぐだぐだである自分が、ドラマの中のぐだぐだと混ざり合って、
ぐだぐだの中にぐだぐだと浸れるのがいい。

ドラマの中の人々はいつまでも若くて、
あの頃の共感とはまた違うのだけれど。

このドラマはぐだぐだなのがいい。


気配り、遠慮、心遣い

今日、話に割り込んじゃって失礼したな。
でも急いでいたし、ほんの一言だったし、仕方ないよな。

一緒に働いてるあの人に、最近上からな物言いをしてるかな。
少なくとも今やわたしのほうが知識があるってこと、隠してないな。

傍若無人な人だと思われてるかもな。

でもまあ、いっかあー。思われても。



・・・・・・ああ、傍若無人に生きるって、楽だな。

気配り、遠慮、心遣い。
そんなの、労多くして何にも多くならないもんな。

・・・・・・尊敬、感謝、評価に見返り、
益になるものはな~んにも。


シーズン最終話の悲劇

Season3の最終回。デルが死んでしまった。
してやられて、涙が流れる。

これはいつもの手。

マヤのことで皆が心配していて、大騒ぎ。
死ぬか生きるかの瀬戸際が続く。

「でもきっと死なないよね。マヤはまだ子供だもの。
ここで死んでしまったら、このドラマのテイストからしたら悲しすぎて合わない」
「それでもそういう予測を裏切って感動させるために下半身麻痺になるかも?
それともマヤは無事に生かして、胎児を殺すかも?」

ついついマヤのことに気をとられて忘れていると、
デルがいきなり意識不明に。
まさかまさか、この展開は・・・・・・と驚いているうちに、
音楽だけで音のない世界でデルの心電図はフラットになる――

いつだって、使われる手。

このドラマの親ドラマでだって、イジーが生死の境をさまよっているときに、
いきなりジョージが交通事故で運ばれてきて、死んでしまう。



予測のできる死は――
悲しみが少ないわけではないけれど、心の準備ができる。

だからドラマでは、別のクライマックスで目くらましをしておいて、
突然の死をもってくる。

分かっていても、やられてしまうときがある。
てんやわんやに、ゴタゴタに、許しや和解のドラマに目をくらまされ、
本命の「死にフラグ」を巧妙に隠されて――
してやられてしまうときがある。



予測のできる死は――
悲しみが少ないわけではないけれど、心の準備ができる。

実のところ、愛する人の死に準備なんてできないけれど、でも予測ができる。

老いていく祖父母には――
老いていく父母には――
患っている家族には―― 若干の覚悟ができていく。

――ほんの若干であって、悲しみが少ないわけではないけれど。

でも

突然、消えてしまう命、
病名を宣告されてから、わずかの期間で旅立ってしまう家族、
そのわずかの間は必死で治癒を願っていて、心に何の準備もできなかった死。

突然の喪失には、不意打ちされてしまう。



ああ、ドラマを見て、そんなことを思うなんて、
わたしも周囲が不穏な年代になってきたっていうことだ・・・・・・



美しい場所

美しいところに住みたい。
見渡す限り、美の世界。

どこに目をやっても美しい場所に住むって、
どんな気分だろうか。


「シェトランド」――絶景ミステリーと銘打たれた放送。

美しい島。
どこまでも広がる空と草原と海と。

重く雲が垂れ込める曇天の日でさえも、
その重く厚く光を隠す雲の層さえも、美を秘めている。

青空はドラマの中でもわずかしかない。
北の島では、夏でも雲がちな空が見える。

それでも登場人物たちは語る。
「島の美しさに惹かれて、移ってきた」


右を見ても、左を見ても、ふと振り返っても、
何らかの美しさがある場所。

そんな場所に住んでみるって、
どんな気分だろうか。


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